我が家の裏庭には、もう何年も開けられていない小さな物置がある。父が趣味の道具などを仕舞っていた場所だが、その扉には古ぼけた四桁のダイヤル式南京錠がぶら下がっていた。父が亡くなってから、誰もその番号を知る者はいなくなってしまったのだ。いつか片付けなければと思いつつも、開けられないことを言い訳に、私はその存在から目を背けてきた。しかし、先日、庭の手入れをしていて、どうしても物置の中の脚立が必要になった。いよいよ、この開かずの扉と向き合う時が来たのだ。最初に試したのは、父が好きだった数字を組み合わせることだった。父と母の誕生日、結婚記念日、昔の実家の電話番号。しかし、南京錠はうんともすんとも言わない。次に、単純だが最も確実な方法、つまり「0000」から「9999」まで、一万通りの組み合わせを全て試すという、途方もない作業に取り掛かることにした。最初のうちは、ラジオを聴きながらリズミカルにダイヤルを回していた。百番、二百番と進むにつれて、まだ先は長いという絶望感と、もしかしたら次で開くかもしれないという淡い期待が交錯する。しかし、千番を過ぎたあたりから、指先は痛くなり、集中力も途切れ始めた。同じ数字を何度も試してしまったり、どこまでやったか分からなくなったり。ダイヤルを回すカチカチという音が、だんだんと私の忍耐力を削る音のように聞こえてくる。二千番台に差し掛かった時、私はふと、この南京錠に挑む自分の姿が、何か人生の縮図のように思えた。正解が分からない問題に対して、ただひたすら地道な試行錯誤を繰り返す。時には無駄骨に終わり、時には偶然の閃きが道を拓く。そんなことを考えていると、焦りが少し和らぎ、目の前の作業に再び向き合うことができた。そして、三千七百番台に差し掛かった時だった。いつものようにダイヤルを回し、シャックルを引いた瞬間、今までとは違う、わずかな手応えがあった。もう一度、ゆっくりと力を込める。ガチャン、という鈍い音と共に、錆びついたシャックルが跳ね上がった。思わず「開いた!」と声が出た。物置の中からは、懐かしい土と油の匂いがした。結局、その番号は父の車の昔のナンバープレートだった。
開かずの物置とダイヤル錠との長い戦い